Ohkawaな日々

  1 入門編



大川ジムは、千歳烏山と言う駅と、その手前のなんとかいう駅の、ちょうど中間点にあった。
だから、どちらの駅で降りても、線路沿いの細い道を15分歩かねばならなかった。ジムは線路際にあった。通学の電車の車窓から、ジムの看板がよく見えた。「健康に美容に、大川ボクシングジム」と書いてあった。
あの当時のボクシングジムのコンセプトとしては、斬新だったと思う。

「大川寛・・金子繁治なんかとやったボクサーだね。」車窓から、その看板を見て、年配の人たちが話している。
電車の中から、看板が見えたので入門した。たいていのボクサーは、そういう理由で所属ジムを決める。あたりまえと言えばあたりまえだが後々、それを深く悔いる選手も多い。 一度、入門したジムを移籍するのは、至難の業なのだ。

もちろん、私には関係のない話で、どこのジムでも良かったのだ。
ジムの入り口に着いたのは、夕方だったがまだ時間が早すぎるらしく、練習生は、一人もいなかった。
入って、右手が練習場で、リングと大小のサンドバッグが厳かにぶら下がっている。左手に手狭な事務室のような部屋があり、そこから、痩せた眼鏡のおばさんが出てきた。60歳くらいだろうか。
事務室の中には、段ボール箱が積み上げられている。後で知ったことだが中には、マグカップなどの雑貨が入っている。大川会長の副業だ。
おばさんは、その雑貨の卸業の事務も執っていたようだ。

「入門の方?」私は、勇気を振り絞って、ここまで来た。
なんか、手続きして、会費ひと月分も払ったのだろうか。今度来るとき、写真を持ってきて、と言われた。

その日は、おばさんに、基礎を教わった。
「脚は、肩幅と同じに開いて。前の足は、ぴったり床につけて、後ろの足の踵は、がっちり上げる。右手は、顎につける。左手を高く上げて、二の腕の内側越しに相手を見る。」

言われた通りにやって、その日は、帰った。


2 みようみまね


ジムへ通い始めて、会長が新しく入った練習生に最初に教えているところを見ていると、 「脚は、肩幅と同じに開いて。前の足は、ぴったり床につける。後ろの足の踵は、がっちり上げる。右手は、顎につける。左手を高く上げて、二の腕の内側越しに相手を見る。」
というものだった。

事務員のおばさんの台詞と寸分違わなかった。会長が留守の時、4回戦の選手が新入りの練習生に教えている台詞も、また同じだった。
入門の時、必ずこれを教えるのだ。ただし、これ以後は、会長も先輩も、ほとんど何も教えない。

言われたとおりに構えてみると、これは、素晴らしい。堂々と、高く掲げたガード。メキシコのボクサーの構えでは、ないか。オリバレスだサラテだ。まさに私の求めているボクシングだと思った。
ところが夜になって、練習生も揃い、スパーリングが始まると、誰も会長から教わった構えをしていない。両手の位置は、顎の下だ。誰一人、グローブで顔をガードしている人は、いない。

今でも、不思議に思うのだが会長が最初に教える、あの基本は、どこから来たものだったのだろう。
大川ジムばかりでなく、昭和の時代のボクサーは、ガードが低かった。
中南米のボクサーが楯のようにガードを高く掲げて前進して、強打でKOの山を築き、世界のボクシングをリードしていた時代だ。
アマチュアの東欧の選手たちも、両手で顎を固めて、打ち合っていた。

その中で、日本のボクシング界だけが取り残されたように、低いガードで戦っていた。
おおざっぱに言って、ボクシングは進化に伴って、ガードの位置を上げている。100年前のボクサーは、両手を腰の当たりに構えて、にらみ合っている。ジョー・ルイスは、両手で乳首を隠している。

1980年あたりにあって、日本のボクシングは、ジョー・ルイスの時代にあったのではないか。更に言えば、あの時代にあって、日本にコンビネーションブローの概念が希薄だったのは、驚くべき事だ。ピストン堀口から、ファイティング原田に繋がる「連打」の概念が主流だった。
協栄ジムとヨネクラジムは別だが。あの二つのジムの技術レベルは別格だった。

たいていのジムは、体系的な技術論など持たず、たいていのボクサーは、習うより慣れろ、見よう見まねでボクシングを覚えていたのだと思う。



3 バンデージを巻く



ジムに通うようになって、俺はボクシングやってるんだなあ、としみじみ感じる時は、バンデージを巻いている時だ。

先輩がベンチに腰を下ろして、時間をかけてバンデージを巻いている姿は、絵のように見えた。
私の初めてのバンデージは、ジムから買った。会長に巻き方を教えてもらった。手首に巻きつけてから始めるのだが会長は「要するに、ここと、ここと、ここを保護するように巻くんだ。」と言って、手首と、親指の付け根と、ナックルを指差した。

3箇所を保護する事を念頭に、アパートの部屋へ帰ってから、バンデージを巻いてみた。あまり上手とは、思えなかったが何べんも巻いているうちに、自分なりの手順ができあがっていった。でも、最後まで巻き方に自信は、持てなかった。
練習を始める前に、ベンチに座って、私も入念にバンデージを巻いた。
このひと時が溜まらねぇ!俺ったら、ボクシングやってるぜぇ。という幸福感に浸った。

4 マス




バンデージを巻き終わってから、どういう順番でやったか、しかとは覚えていないが
ストレッチ、鏡の前でシャドー。縄跳びをなんラウンドかやり、サンドバッグを叩いた。サンドバッグは、楽しかった。アルゲリョになった気分で、好きなように、コンビネーションを打てるのだから。
大きいサンドバッグ、小さいサンドバッグの両方を存分に打った。

それから、マスボクシング。二人で、本当には当てないでボクシングの真似だけするもので、スパーリングへの導入と、普通言われている。
でも、旧ソ連のボクシング教本を読んでいた私には、このマスボクシングに疑問を持った。
その本には、マスボクシングは、型を覚える練習で、選手Aが一歩出て、ジャブを打ったら、選手Bは、それを片手で受け止める。
次に選手Bがジャブを打ち、Aは、それを片手で受ける。攻撃と防御を一対にして、反復練習するのだ。次は、ワンツーパンチと、その防御。というように、パターンは次第に複雑な物になっていく。

「ただ、ボクシングの真似をしているだけの、このマスボクシングにあまり意味はないぞぅ。」などと思いながらやっていた、頭でっかちの練習生だった。リング上で3組くらいが、ぶつかりあわないように気をつけながら、しずしずとステップを踏む様子は、舞踏会の夜、かな。

リングに上がり、相手を見つけて「お願いします。」と言って、始める。相手は、J.ウェルターくらいありそうだった。ちなみに私は、J.フライだ。そいつは、ガッチリした体格をして、顔つきと物腰は冷静なのだ。でも、しばらくマスボクシングしていると、際どいパンチを打ってくる。こっちも、応じて熱くなってしまい。どつきあいにまでは、至らなかったがゴングが鳴らなかったら、やばかった。もちろん私が。

数日後、別の先輩が「こいつら、こないだマスで、本気で打ち合ってたぜぇ。」と二人の練習生を指した。(こいつら)の片方が先日の私の相手だった。やっぱり、あいつやばい。
ところが、リング上でまた、その男と顔を合わせてしまい、思わず「マス、お願いします。」と言ってしまった。逃げたと思われたくなかったのだ。
その男は、苦笑いして、首を振った。向こうの方が大人だった。

5 punching boll


ジムのパンチングボールは、しなびて、垂れていた。
誰も触ろうともせず、置き去りにされていた。一度、J.フェザーの先輩が「他所のジムに行って練習すると、みんなパンチングボールが上手で、やってみたらうまくできなくて恥かいたよ。」と笑いながら話した。

あれは、ボールがパンクしているのに、誰も修理しないのだと思っていた。ずっと、そう思っていた。でも、事情が違うことが最近、わかった。
C・イーストウッドの映画ミリオンダラー・ベイビーを見ていたら、ヒロインの女性の練習生がお金を工面して、パンチングボールのボールを買ったのだ。買ったボールをバッグに入れて、ジムへ持ってきた。
そういうものだったのか。あれに空気を入れて、フックに引っ掛けて叩くというわけか。そして、練習が終わったら、またバッグに入れて、持って帰るのだ。

叩いてみたかったな。アリは、あれをいかにも楽しそうに叩いている。
卓抜したジャズ奏者が演奏をしているような、熟練とユーモアを感じる。子猫が毬とじゃれているようにも見える。
アリがあれだけ楽しそうにやる練習なのだから、重要な練習なのだろう。だが何の為の練習なんだろう。やってみたら、わかったかもしれない。

私は、毎夕、よく練習した。1リットル汗をかいた。煙草をやめた。体重は、筋肉だけで増えていった。会長から「おい、スパーリング!」という声がかかるのを待っていた。

6 劇団・ボクシング



その頃、私は、、週一回、商法の授業を受けに、調布から都心まで通っていた。言うのも恥ずかしい大学5年生だった。

いくらなんでも、仕送りは貰えないので、週5日、マリンフーズと言う食品会社で、日当5千円のアルバイトをしていた。アルバイトの仲間は、暴走族、たけのこ族をやってるやつ。カメラマン志望。ミュージシャン志望。ただ単に正社員になりたいやつ。夜にも、仕事を持っていて、その金で家族を養い、昼間の稼ぎは全て週末の競馬に注ぎこむおっさん。教職か何かの試験に受かったが何年も採用待ちをしている人。金が貯まったら、バックパッカーになって、地球を歩くやつ。ともかく地方から出てきて東京で暮らしているやつ。
私は、長い長い、とても長かった親の支配から抜け出せた喜びで一杯だった。あの頃、世界は輝いていた。
車の免許を取り、バイクの免許を取り、スペイン語の講習会に通った。そしてボクシングの練習生だった。

「おいタイガー、スパーリングやれ!」会長の声は、なかなか掛からなかった。黒縁眼鏡を掛けて貧弱な体をした、気の弱そうな学生は、近々やめると、思われていたのだろう。

後から入ってきた練習生は、次々にスパーリングをやった。仲良くなった佐賀県から来た男は、スーパーに勤めていると言った。劇団に入りたくて、あちこち当たってみたという。

呑気で気性の穏やかな男だったがスパーリングを始めると、一歩も退かず、その長身から、打ち下ろすパンチでどんどん押していく。
その佐賀の男に、「プロになって、4回戦のギャラ、5万円だってさ。」と、やる気を失くすような事をいってみたら、「そんなに貰えるの!ただ、ポン、ポーンとやっちゃえばいいんだろ。」と答えた。やっぱ、こういうやつがボクサーになるんだ、と思った。
だが、しばらくして、彼はジムへ来なくなった。アパートが近所だったので、行ってみた。管理人のおばさんが現れて、「あの人は、急病で佐賀へ帰っちゃったよ。」と言った。

7 横田


横田は、リングの中央へ、白いリングシューズを放り投げてから、そこで悠然と履いた。まだ17歳の4回戦ボーイだった。若かった大川ジムには、4回戦ボーイが5,6人いるだけだった。

横田は、その中でも一番若く、スキルは際立っていた。
あの頃、彼はフライ級あたりだったのでは、なかったかと思う。スパーリングでは、フェザー級の選手を相手に、軽快なフットワークから冴えた左右ストレートを放ち、寄せ付けなかった。

ジムの息子かと思うほど、ジムの中で、超然として、寛いでいた。横田はあの頃、デビュー戦をKOで勝ち、二連勝、三連勝と白星を重ねていた頃だったろう。
私は、彼の試合を見たことは、なかったし、戦績にもあまり関心がなかった。ただ、その若く、秀でた能力には、憧れに近いものすら感じた。

たまたま、帰りの電車で乗り合わせたことがあった。しばらく、話した。「大場政夫、見たことあるんでしょ?」と、いくぶん羨ましそうに聞いた。
大場に憧れて、ボクシングを始めたのか、と思った。そういえば、大場と同じ髪型をして、大場と同じストレートパンチャーだった。

私がジムに通ったのは、半年だった。ジムをやめてから、何ヶ月かして、またジムを訪ねた。練習生に横田のことを尋ねると、「あいつ、来なくなったよ。デビューから3連勝して、4戦目にダウンして判定負けしたんだ。あいつは、自分は絶対ダウンしないとおもっていたから、ショックで来なくなったよ。」
リング上では、私と同じ時期に入門した練習生が素晴らしいスパーリングをしていた。

それから14年後、私は37歳になっていた。ウィルフレド・バスケスの持つ世界J・フェザー級タイトルに挑むという選手の名前を新聞で見た。横田広明 (大川ジム)・・・・まさか、あの横田じゃないだろう。14年も経っているんだ。顔写真も渋すぎる。

だが、あの横田だった。彼は、あの時、一度引退して、8年後にカムバックした。そして27歳で日本王者となり、1993年32歳で世界タイトルに挑み、12R判定で敗れた。
その試合のテレビ中継で、初めて彼の試合を見た。大場政夫とは、似ても似つかないボクシングだった。「横田のとらえどころのないボクシングが・・・」と、ボクシングマガジンに書いてあり、「何言ってんの?横田は正統派ストレートパンチャーだよ。」と思ったが見てみると、まさに<とらえどころのないボクシング>だった。歳月が変えたのは、彼の風貌だけでは、なかった。

8 沼田



沼田さんが言った。「人を殴るってのは、気持良いもんだよ。だがその反面!自分も殴られる。」気さくな人で、しばらくすると私にも、声をかけてくれた。
後楽園ホールへ沼田さんの4回戦を見に行った。白いローブのフードで頭部を覆い、沼田さんは、俯くように花道を歩き、リングに上がった。全てが明確に見える、あのリングで、沼田さんは、フードを払いのけ、ローブを脱いだ。
生まれたての赤ん坊のように見えた。湯気の立つピンク色の、生まれたての赤ん坊のように沼田さんは、見えた。

ゴングが鳴ると、沼田さんは、打って打って、打ちまくった。一瞬も待つことなく、眺めることなく、沼田さんは、打ちまくった。2Rも、3Rも、4Rも沼田さんは、打ち続けた。時折、無意識のように打つジャブがピシッと当たっていた。
「沼田ってやつは、根性あるね。」年配の観客が言った。「相手がいるんだから、少しは見ればいい。」若い観客が言った。
最後のゴングが鳴り、判定がどうだったか、思い出せない。でも、沼田さんが観客を沸かせた事は、事実だった。

「危なくなったら、リングの外へ出ちまえ。怪我してまで、やるようなことじゃないんだからさ。」練習で、そんなふうに言う会長は、度量の大きい人だ。一方、弟子たちは、命がけで戦っていた。

9 初めてのスパーリング


ゴングが鳴って、対角線上のコーナーを振り向いた時、地平線が見えた。

気がした。初めてのスパーリングだった。相手をしてくれたのは、4回戦ボーイの山下さんだった。J・フェザーの左構えだった。

そんなことは、どうでもよく、私はすぐ、息が上がった。山下さんは、手を出さない。いくらか動かしながら、見ているだけだ。
私は、彼の周りを回ろうとした。すぐ足がもつれて、つんのめった。フットワークの練習は、中学生の頃から、独習して、充分やったつもりだがどう動かせば良いのかわからなかった。

初心者だから、会長は1R2分の2Rにしてくれたのだがあんなに長い2分があるとは、知らなかった。そして、1R3分で10Rも戦うボクサーとは、すごい人達だと、心から思った。

この初めてのスパーリングは、入門から5ヶ月くらい、経ってからだったのでは、ないかと思う。「熱心に通って来るし、やらせてやるか。」と会長は、思ったのだろう。

じきに二度目のスパーリングをやらせてくれた。これも相手は、山下さん。今回も、軽く右ジャブを出すだけ。あのスパーリングで、ひとつだけ山下さんに、パンチを入れた。
山下さんが右を突いて出たとき、一歩退いて、左フックが自然に出て、ヒットした。見ていた会長がハッとしたのがわかった。その後、思い出すと顔が赤くなるが片手で戦っている山下さんにロープを背負わせて、コンビネーションブローをくれたのだった。
そのスパーリングの翌日、会長に、「タイガー、おまえは巧いんだからな。」と言われて気を良くした。

三度目のスパーリングの時は、すでに(自信)をつけていた。また、相手は山下さんだった。あの時、私はグローブのハンデを拒否して、山下さんと同じ大きさのグローブでやると主張した。

すると会長は、「山下、左も使え。」と、横顔で静かに言った。
ゴングが鳴ってほどなく、緑色の星が見えた。次にV字に開いた自分の両脚が見えた。オレンジ色のトレパンの裾をたくし上げてあったな。白いスニーカーを履いていた。
私は、山下さんの左ストレートを浴びて、ダウンした。立ち上がったのだがそこで、スパーは、中止だったのだろう。記憶が定かでない。

その夜、だったか、二三日後の夜だったか、目の前に、でかいグローブが飛来して、その周りに赤と緑の渦巻きがギラギラしながら回るという夢を見た。寝汗を掻いていた。
それから、ジムへ行くのが少し怖くなった。でも、通った。

10 その後



その後
デビュー戦を控える、フェザー級の若林さんと、スパーリングしたが私は、パンチにほとんど対応できなかった。向こうは、手加減して、淡々と打っているだけだったがほとんど、よけられなかった。

見ていた山下さんがボディ!ボディ打て!と叫んだのが耳に入り、「じゃ、まあ、打ってみるか。」と、一歩出て、左フックを脇腹に打つと、当たった。「なるほど、リーチが短くても、ボディには、届くんだな。」と思った。すぐ、アッパーがボディへ返ってきて、自分の唸り声をはっきり聞いた。

でも、腹筋は、良く鍛えていたので、効きは、しなかった。ボディ打たれて、唸るのは、苦しいからでは、なく、きっと、腹筋を締めるためなのだろう。

入って間もない練習生が若林さんと、スパーリングするのを見たがその練習生は、パンチを打とうなどとは、考えず、距離を取って、若林さんが打ってくると、アームブロックで防いだ。
なんで、あれが俺には、できないんだろうと思った。高校の時、トレパン手に巻いて、教室でボクシングやった頃には、かなり打ち合っても、めったに打たれなかった。
若林さんのデビュー戦を後楽園ホールへ見に行った。

若林さんは、かっこいいボクサーファイターで、試合でも、積極的に打ち合い、判定勝ちで手を挙げた。後の席で見ていた私は、立って拍手した。その時、リング上の会長が私の方をちらと見た。そう今でも確信している。

ある夜、ジムの練習が終わるころ、先輩の一人が財布から、小銭を床にばら撒いた。沼田さんが「タイガー!金拾え!」と言ったので、さてと腰を屈めたのだが小銭が一枚も見えない。目を凝らしていると、「DOMEKURAKA!」と沼田さん。
この人達には、落ちた小銭が見えるのかと思った。

両目共に視力0.1というのは、問題かなと思った。高校の時、友人が「柴田国明は、試合の時、コンタクトレンズを入れている。」と言っていたのを思い出し、眼鏡の量販店へ行き、「コンタクトレンズ入れて、ボクシングできますか。」と聞いたら、スーツを着た青年が「だいじょうぶですよ。もう、バンバンッ。」と請合ったので、慈恵医大の眼科へ行き、「ボクシングのできるコンタクトレンズありますか。」と聞いたら、若い医者は、「ボクシングのできるコンタクトレンズは、ありません。でもせっかく来たのだから、眼底検査をしてあげましょう。ははん、これが左ストレートを食った痕ですね。」

ボクシングをやめて、じきにまた煙草を吸うようになり、一年後、フリーターから木彫家を目指して、信州へ行った。



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